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文人大名本多忠統が愛した地蔵寺周辺の風景
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蓮体和尚が再興し、
忠統が訪れた地蔵寺
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宝永8年(1711)7月11日、西代藩主本多忠統が江戸からはじめて西代村に国入りしました。この時、陣屋はまだ建築中で、半年あまりは仮屋住まいを余儀なくされました。その年の12月13日になってようやく新築された陣屋に移ることができました。この陣屋の完成により忠統は、大名としての面目を保ちました。
陣屋の建物や配置はわかりませんが、現在残されている西代村絵図には陣屋跡が描かれています。これにより、広さと門の位置が推測できます。その場所は、前号で書きましたように、現在の長野小学校・長野中学校にかけての場所で、西側は西代神社に隣接していました。敷地の規模は東西約145m、南北約317mと推測されます。門は北側と南側、東側の3か所に設けられていたことがわかります。ちなみにこの陣屋から東側約300mには、西代藩の本家膳所藩の河州代官所がありました。
忠統は、享保4年(1719)に大番頭を拝命するまで、1年ごとに西代と江戸を参勤交代のために往復していました。江戸へ上った忠統は、公務の間をぬって儒者荻生徂徠から教えを受けていたようです。そして、弾琴を愛し、唐代の詩と漢代の古文に抜きんでていたと言われています。彼自身、孔子が幽谷に香蘭を見つけて蘭を王者の香りと感嘆して作った琴曲「猗蘭操」から「猗蘭子」と号していました。
西代に帰っている間も勉学と詩作に励み、陣屋内には「猗蘭台」と命名した建物を建てていました。この建物は、伊勢神戸に移封されるときに延命寺に下げ渡され、戦前まで残っていました。
延命寺は、忠統の父忠恒が当時の住職で稀代の真言宗名僧浄厳和尚に深く帰依し、寺領を寄進されています。この後、本多家歴代藩主から手厚い保護を受けています。
二代目住職蓮体和尚も名僧で忠統と親交があり、蓮体和尚が清水の地蔵寺を再興したあとは、忠統も周囲の風景を好みたびたび訪れました。そして、弾琴を奏で詩作を楽しんでいました。亨保2年(1717)に訪れたときは、周囲の風景を中国の九華山になぞらえて、寺の山号を玉井山から九華山と改めました。寺には忠統自筆の「遊九華山記」と題する書軸が一巻伝わっています。
このような文人大名の忠統は将軍吉宗に抜てきされると、徂徠学を奉じその英才さを発揮します。若年寄に就任後はあの名町奉行と言われた大岡忠相の施策をチェックし、厳しい農政をとった老中松平乗邑と「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」と言ったと伝えられる勘定奉行神尾春央との間は一線を画し、貨幣問題に取組み功を認められています。
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